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“稼ぎ頭”山口百恵の引退を乗り切ったのはホリプロの危機管理力(日刊ゲンダイDIGITAL)


【芸能プロの「光と影」】


ホリプロ


「渡辺プロ」(現・ワタナベエンターテインメント)がつくり上げた芸能ビジネスを機に芸能界は一変。新たに参戦する事務所も生まれていく中、頭角を現していったのが「ホリプロ」だった。


「ナベプロに追いつき追い越せ」を旗印に1年後の1960年、有限会社として創設。わずか3年で株式会社に成長していった。創設者・堀威夫氏(86=現・ファウンダー最高顧問)もミュージシャン出身で名字を社名にしている。当時を知る関係者は、「渡辺晋さん同様、歌手志望者に対して“堀さんなら”と入りやすくしたのでは」という。


 発足当初はザ・スパイダースらGSグループや舟木一夫らが所属して歌謡界に参入。徐々に業績を上げていく中、大阪で発掘したのが和田アキ子。続いて70年代には森昌子、山口百恵という後のビッグアイドルを売り出した。2人は共にアイドル発掘番組「スター誕生!」から生まれた。番組プロデューサーの故・池田文雄氏はこう話をしていた。


「スカウト網が発達していない時代。番組がホリプロを中心とした芸能プロとタッグを組んで全国からアイドルの卵を探しスカウトするのが目的でしたが、女の子にとって芸能界はまだ不安があった時代。日テレが事務所と間を仲介することで安心・安全の保証をした」


 桜田淳子、小泉今日子、中森明菜らアイドルを輩出した番組となったが、百恵の第一印象は暗いイメージがあり、アイドル向きじゃないと見る人も少なくなかった。堀氏が獲得した理由も「当初、石川さゆり・森昌子と組ませて“ホリプロ3人娘”で売り出す予定でしたが、さゆりは演歌向きと判断。別な事務所の桜田淳子を入れて3人組にした」と回顧している。


 3人の中でも異彩を放つ百恵の売り出しにはホリプロの戦略があった。どんなにいい素材の子でもどう生かすかが事務所の手腕。歌手が食材ならマネジャーは料理人。百恵の特徴を生かし「ひと夏の経験」を皮切りに「性春路線」という意味深な歌詞で無表情を演出。既成のアイドルの概念を破り、百恵は一気にスターの座を駆け上がった。


 ホリプロは業界の既成概念打破。東宝とタッグを組み映画にも進出。三浦友和とのコンビで大ヒット。百恵はアイドルの中でも別格の存在になった。ひとりのスターの誕生は事務所の歴史も動かす。ホリプロの自社ビルも「百恵が建てたようなもの」といわれたこともあったが、堀氏の目標だった「芸能プロを一企業として社会に認知させたい」との思いは自社ビルで完成した感もある。


 順調な事業にも落とし穴があった。デビューから7年。80年、百恵は友和と結婚・引退する。当時の舞台裏を堀氏からこう聞いた。


「百恵から直接、相談があると言ってきたのは初めて。結婚はおよそ見当がついていましたが、引退はまったく予想もしていなかった。止められる雰囲気もなかった」


 稼ぎ頭の引退もホリプロは事前の危機管理力で乗り切った。「スタ誕」にヒントを得て、独自にアイドルを発掘すべく「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を百恵が引退する4年前に立ち上げ、すでに順調に稼働していた。「百恵のような看板スターがいるだけで、安心して応募者も増える」という業界の手本にもなった。後にオスカープロも後藤久美子の出現で「国民的美少女コンテスト」を実施するなど他の事務所も追随。公開スカウトブームの先駆けとなった。キャラバンも榊原郁恵を皮切りに何人もの女優・タレントが生まれ、現在活躍中の深田恭子、綾瀬はるか、石原さとみへとつながっている。


(二田一比古/芸能ジャーナリスト)

提供元:Yahooニュース
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