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妻の実家の居間の壁に飾られた見慣れない刺繍絵をめぐるエピソード(松尾潔)(日刊ゲンダイDIGITAL)

【松尾潔のメロウな木曜日】#68

 正月、妻の九州の実家を訪ねた。

 この冬に入って一番の寒さだった。木製の玄関扉のノブに手を伸ばす。こんなに重かったっけ。結婚して20年とすこし。この扉もそれと同じ長さの歳月を経たのだな。

権力を監視すべき立場の放送人が、大臣や長官みたいなスタンスを気取ってどうすんのよ

「お久しぶりです」

 扉を開けた途端、先に帰省していた子どもたちの声と、かの地特有の甘辛い醤油を煮詰めた香りが、ぼくの鼓膜と鼻腔に同時に飛び込んでくる。眼鏡のレンズを曇らせる暖気は、エアコンだけが生みだしたものでもなさそうだ。

 腰を屈めて三和土に脱いだ靴を前向きにそろえる。普段の生活では縁遠いこんな所作こそが柳田国男のいうハレ、正月という非日常なのだろう。立ち上がる時に「よっこいしょ」と独りごちた自分の声と間合いが、一昨年に他界した父とそっくりであることに気づき、微苦笑を禁じえない。

 居間の壁に見慣れない刺繍絵があるのに気づく。帽子が飛ばされるほどの強い寒風に耐える人びとや木々が描かれたその絵は、今日のような寒い日にはうってつけだ。クロスステッチというのだろうか、凝った図柄ではないのだけれど、余白の多いところもぼく好み。だが……はたして義母に刺繍の趣味があっただろうか。

「お母さん、ご無沙汰している間にこんなに腕を上げられて」しばらく会わぬうちに背中がいくぶん丸くなった義母は、はじめ怪訝そうな表情だったが、ぼくの言う意味がわかるや人懐こい笑顔を浮かべた。彼女が語るこの刺繍絵が居間に飾られるまでの経緯は、次のようなものである。

 義母には長い付きあいのある時計屋の夫婦がいる。もう80代かな、と彼女は言う。今日びの地方都市で時計屋といえば、デパートやモールに入る店を除けば、マニアや富裕層向けに高級腕時計やビンテージウォッチの品ぞろえを充実させた店か、修理や電池交換の小さな利ざやで細々と経営を続ける昔ながらの個人商店に大別できるだろう。義母のいう時計屋は後者である。

 付きあいは40年ほどになるが、大きな買い物は一度もしたことがないし、私的な時間を共にしたこともない。腕時計の電池が切れたり、眼鏡のフレームに不調があったりした時に、予約もなしに店を訪ねては対応を施してもらうだけの関係。それでも同じ街に住んでいるから、夫婦の仲が円満なこと、3人の子が成人して巣立ったこと、そして妻がかつて大病を患ったことを知っている。病歴については街の誰もが知るわけではない。なぜ義母が知っているかというと、彼女もまた同じ病気と闘った過去をもつからだ。

 義母が久しぶりに時計屋に足を運んだのは昨春のこと。銀婚式の記念に夫婦で買った腕時計の、もう何度目かのベルト交換。これから季節もよくなるし、コロナの猛威も収まってきているようだから、外出する機会も増えるかも。そう思った彼女は、ベルトの傷みが目立ってきた自分の腕時計を預け、翌週引き取る約束をして店を出た。

 その週末、時計屋の妻から電話がかかってきた。彼女は預かっていた腕時計を紛失したことを告白し、「思い出のお品をなくすなんて」と涙声で詫びた。どんな言葉がその場にふさわしいのか、すぐには分からなかった義母は「気にせんでください」と言うのがやっとだったという。

「お母さん、それは人が良すぎでしょう」一年近くも前の出来事をいま知ったばかりのぼくが、思わず言葉を荒げる。「だって相手は身内や友だちじゃない。お店なら保険にだって入ってるはずです」だが義母は「保険に入る余裕はないと思うよ、あの店は」と笑うばかり。まったく埒が明かない。怒りの矛先は顔も知らぬ時計屋夫婦から、目の前で笑みを浮かべる義母その人へと向かおうとしている。

「で、その腕時計とこの刺繍絵に、一体どんな関係があるんですか」気づけば自分は詰問調になっている。「時計屋の奥さんがこれば作ってくれて、年末にわざわざ持ってこらしたとよ」絶句するぼくに義母は気を留める素振りもない。穏やかな笑顔のまま刺繍絵を眺めながら「可愛かろう?」と満足げにつぶやいた。 

(松尾潔/音楽プロデューサー)

提供元:Yahooニュース
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