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栄養失調から新宿駅で気絶 作曲家・岡千秋さんの極貧時代(日刊ゲンダイDIGITAL)
演歌の“大御所”として知られる作曲家の岡千秋さん(66)。上京したのは17歳。下積み時代は苦労も多かった。
◇ ◇ ◇
まったく食うや食わずでね。金がないから1日3度の食事なんて夢の夢。たった30円、40円の立ち食いそばすら食えなくて、栄養失調が原因の貧血でよく電車の中で倒れたもんだよ。
ある日なんて、気がついたら新宿駅のトイレの床。どうしてそんなところでひっくり返ってたのか分からないけど、気分が悪くなって駆け込んで、そのまま気絶しちゃったんだろうね。でも、だーれも「大丈夫か?」って声をかけてはくれないし、駅員を呼ぶとか救護してくれる人もいなかった。あの時は「東京の人はなんでこんなに冷たいんだろ。負けるもんか。俺は絶対スター歌手になってやる!」って思ったもんだよ。歌手を目標に上京してすぐだから、67年とか68年ごろだね。
僕は岡山県の東、今は合併して備前市になった瀬戸内海の小さな島、鴻島に兄と姉に続く3人きょうだいの末っ子。僕が生まれる前に両親は離婚して母子家庭だったから、そりゃもう貧乏を絵に描いたような暮らしでね。それでも中学2年の時の音楽の先生が「音楽の才能がある」と言ってくれたのを支えに中学を卒業後、大阪のメッキ工場のアルバイトを経て、和歌山県那智勝浦のホテルのラウンジで働くようになった。エレクトーンが少し弾けたから歌手の伴奏をしたり、司会を任されたんだ。
そこで知り合った画廊オーナーの誘いで上京したのが17歳。住んでたのは世田谷区桜新町にあった画廊の狭い狭い屋根裏部屋。天井が低いから、かがまなきゃならないのはご愛嬌だった。
■絶妙のタイミングでキーパーソンに出会って今がある
最初の仕事は浪曲師のカバン持ち。三門勝夫師匠、3代目広沢虎造師匠のお世話になったけど、1枚100円ほどのパンフレットを売って5円もらえるぐらいで、あとはたまに頂く数百円のお小遣い程度。画廊の店番もしたけど、似たり寄ったり。アパート代が不要なだけで、生活は本当に苦しかった。
それでも歌手になりたいって気持ちは揺るがなかったから、食うために錦糸町のグランドキャバレー大興でボーイを始め、少し落ち着いてから大ヒット曲「赤いグラス」の作曲家・牧野昭一先生の歌謡教室に通うことにしたんだ。そうしたら先生が不在の時は僕がピアノを弾くことになって、キャバレーを辞めなきゃならない。キャバレーはちゃんと給料をくれたけど、歌謡教室の謝礼は、またまた小遣い程度。極貧生活に逆戻りだよ。
後で聞いた話では、牧野先生はよからぬところからの借金が膨らみ、借金取りから逃げ回ってたらしい。僕にまでお金が回ってこないわけだよね。そんなこと知らないから、「先生のお手伝いをしていたら、そのうちチャンスが回ってくるかも」と信じて疑わず、東十条にあった知り合いのアパートにタダで住まわせてもらって、青息吐息ながら前を向いて生きてた。
その頃だね、よく貧血になったのは。東十条から歌謡教室があった神田までのわずか20分でさえ、電車に揺られると気分が悪くなった。そんな生活を長く続けられるわけがなく、次にアルバイトしたのが新宿・歌舞伎町の札幌ラーメン店。住み込みで、まかない付きだったから、本当に助かったよ。
実はこのラーメン店が大きな転機を掴むきっかけになった。ここを辞める時に声をかけてくれたのが、よく出前に行ってた「鍛冶」というバーのママで、弾き語りをさせてもらうことになったんだ。
そうしたら馴染み客だった人気コメディアンの玉川良一さんが僕の歌に惚れ込んでくれてね。「一緒に売り込みに行こう」って誘われて向かったのが村田英雄さん、サブちゃん(北島三郎)、藤圭子らが所属していた新栄プロ。ここで西川幸男社長に出会って作曲家の勉強をさせてもらうことになった。
ホント、紆余曲折、山あり谷ありだよ。だけど、その時々に絶妙のタイミングでキーパーソンと巡り合い、軌道修正されて今がある。それにさまざまな仕事をしていろんな人に出会ってるから引き出しも自然と増えた。それが今、作曲家としてたくさんのインスピレーションに恵まれてる秘密だろうね。
提供元:Yahooニュース