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銃は心をどう変える?動悸が止まらない村上虹郎主演作(dmenu映画)

今年、玉木宏主演の『悪と仮面のルール』、岩田剛典主演の『去年の冬、きみと別れ』と映画化作品が続く芥川賞作家、中村文則。海外でも高く評価されている彼のデビュー小説『銃』が映画化され、11月17日より公開となる。同作は、鋭い輝きに射抜かれる閃光のような青春映画。主演を務める村上虹郎は、キャリア中、ベストアクトと言っていい充実の芝居を披露している。
この映画、なんとモノクロームである。回想シーンが白黒ということは珍しくないが、時代劇でも、過去が舞台でもない作品がモノクロというのは極めて珍しい。白黒映像は、ただのムード作りではない。必然性がある。主人公の心象に迫るためにモノクロームが最適の表現だったことが最後の最後にわかる。
映画では、銃を拾ったひとりの大学生が陥る「精神の地獄」を見つめる。とはいえ、前半の主人公は主に高揚感と多幸感に満たされている。銃が部屋にある。ただそれだけで生きる自信が湧いてくる。その様を、村上虹郎は、若者ならではの自尊心と、同時にある脆さとを溶け合わせながら、あくまでもシャープに演じている。
自分に好意を寄せている女子大生とはあくまでもプラトニックな距離を保ちながら、合コンで知り合った女の子とセックスフレンドのような関係を結び、心身のバランスをとる。危うい綱渡りを続ける大学生の姿は、銃を初めて所持したとき、人間はこうなるのではないかという説得力がある。
原作小説はモノローグ、つまり独白調だが、映画はナレーションに極力頼らず、村上虹郎のひとり芝居に、この「主観物語」を託している。虹郎は説明的な演技は一切していないが、観客は彼のすぐそばにいて、ヒリヒリする感覚やドキドキする心持ちを共に味わうことになるだろう。それは映像の力であり、芝居の力である。
誰と一緒にいても「ひとり」の状態をキープできていた主人公のクールネスは、あるとき決壊し、もう後戻りの利かないところへと転がっていく。
銃の行方を追う刑事が、ある日、主人公の部屋を訪れる。彼は刑事を部屋に入れることは拒むことができたが、外に出て、喫茶店で刑事の質問に答えるしかなくなる。リリー・フランキーが刑事に扮し、天使なのか悪魔なのか、正体不明の「誘い」を破格の実在感で体現している。
銃という存在のおかげで、向かうところ敵なしの気分だった主人公のプライドは、一手、また一手と将棋の名人のように容赦なく追い込んでいく刑事の話術に、瀬戸際のコーナーまで完全に追い込まれる。
この「対決」場面は、本作の白眉だ。リリー・フランキーならではのいやらしさと純粋さが、なぜか矛盾なく混じり合った迫力。それを前にして、もはやボロボロなのに、何食わぬ顔を装い、懸命にかわし続ける虹郎の孤独な闘い。
まるで、凄腕プロテニスプレイヤーふたりの世紀の名勝負を目の当たりにするような緊迫感。虹郎がいくらボールを返しても、リリーは逆サイドのコートの隅を目がけて打ち返してくる。翻弄と追従のセッション。
ここから映画は急転直下し、主人公の暴走が始まる。そこで何が起きるかは、ぜひ劇場で確認していただきたい。
銃が人に何を与え、何を奪うのか。何かを得ることで、確実に何かを失う。ある種の極限状況を通して、本作は、抗うことのできない人間心理のアップ&ダウンを浮き彫りにする。モノクローム映像は、人物の像に心のフォーカスをあわせるのに適している。のめり込むように見つめた後、衝撃の結末に遭遇したあなたは、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と問いかけられることになるだろう。
提供元:Yahooニュース