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我が青春12年間のウェーキ《航跡》

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  • 1:

    ?

    小生は昼間に神戸沖を望むある埠頭のパークへ、甥を連れてドライブに来ていた。。ボッーと天気に任して遥か淡路島を見ていれば、海上沖合に綺麗にアヒルの親子みたいに等間隔をあけて、整列して航行する船団を見受けた。。しばらく目を凝らして見てみれば、、私はその時に忘れもしない、それは船の番号からして、色からして我が国の海上防衛を担っている海上自衛隊所属の護衛艦隊であった。和歌山の果てから山口県の端までは、広島県呉にある呉基地が管轄しているので、瀬戸内海から大阪湾と紀淡海峡を抜けて横須賀基地まで行く構えである。 小生は

    2007-07-17 20:28:00
  • 2:

    名無しさん

    その見覚えのある艦隊の艦影に見覚えがある。。今から五年前まで私は艦隊にいた人間だから。艦首の航行する、艦首が立てる波からある程度の艦隊速力が判断できる まさに水中から勇ましい、懐かしいプロペラ音が聞こえる様だった。 私が入った海上自衛隊は、かっては海軍と云われた組織であり今は、名前を変えて存在している 訓練がまるっきし帝国海軍から変わってはいない 私が入隊した頃はまだ春の梢が多かった時で、肌寒い時期に舞鶴の門へくぐった事である 学生課程での、入隊した海上自衛隊は自慢じゃないが、理数は出来なければ絶対にダメである。それは帝国海軍からなんら変わりはない。 私が入隊した頃は、厳しい訓練と日本海独特の暑さが待っていた。まず入隊すれば三日間はお客さん扱い扱いである その間に

    2007-07-18 07:01:00
  • 3:

    ?

    読んでます?

    2007-07-19 01:32:00
  • 4:

    ??

    >>4さんありがとう 事実と体験をもとに、今の南で飲む小生へと話しを進めて行きたいです

    2007-07-19 07:51:00
  • 5:

    ?

    制服を着て東舞鶴から、当時まだあった汽車に乗って綾部、福知山を経由して京都まで、京都から大阪まで帰った 濃紺のネービーブルーの詰め襟を着て帰って来た時は、近所の方々が自宅まで「てっちゃん帰って来たのんや!お帰り」とか久々に近隣の方々と会話した みんな制服着ているので、海軍さん海軍さんと呼ばれたのを覚えている 帰省中は卒業した学校の講話とか、海上自衛隊の事をご理解していただく為にたくさんの方々と交流した 休暇が終わって舞鶴へ戻れば、5キロマラソンや連帯責任というあらゆる罰直が待ち受けていた 理由は何でもかまわない 靴がみがかれていないだの、布団の整理がわるいだの、

    2007-07-19 08:03:00
  • 6:

    名無しさん

    ナングセ付けられて歯がぐらつくまで殴られたもんだ やがて半年間の厳しい過酷な訓練教育が終わりに近づいて来た時に 5キロ持久走競技がある 18分以内に

    2007-07-19 21:23:00
  • 7:

    ?

    今日も読んでます?

    2007-07-19 22:29:00
  • 8:

    名無しさん

    走り切らなければならない 私は号砲がなった時からトップを走った そのために皆が自由時間に寝ている時間でもただタイムだけをあげるために、過酷な練習にたえてきた.17分11秒 でなんとか逃げ切りで一位入賞 暑い真夏の気温での戦いはおわったが この日の入賞メダルの数と金銀銅によって 修業行進の先頭を歩けるわけだ 名誉に関わる事だったので 私は通算は個人の駆け足登山競技が一位 射撃個人が銅で三位 団体ハンドボール三位 団体水泳が三位 団体短距離一位 で計 5個のメダルを首からかけて卒業行進の時に堂々と、白の詰め襟制服で他の学生や職員や教官に見送られながら、音楽隊が生演奏する軍艦行進曲を右手に聞きながら 白い礼装挙手の敬礼を

    2007-07-21 00:03:00
  • 9:

    ?

    ?

    2007-07-21 05:18:00
  • 10:

    名無しさん

    である 新しく配属された部隊基地は徳島県にある201小月教育航空隊 私は航空隊勤務になった そこで航空救難武器整備員となって半年間勤務した 救難ヘリコプターからYS11、 P3C対潜哨戒機に幾度となく仕事柄、搭乗した 正規の飛行搭乗員になればクルーとされ、航空手当やら食べる食事までも違ってくる パイロットとなればさらに航空食までが付与される それからまた転勤となって一時は鹿児島の鹿屋航空隊勤務となった ここの飛行滑走路は戦時中は、神風特別攻撃隊員が、飛行機に重たい爆弾をくくり付けて終戦までに約2200名のパイロット達が戦後の復興と平和を願って 有利な和平交渉になるように 沖縄近海に集結しているアメリカ空母機動部隊へ必殺の体当たり攻撃をしに連日飛び立ったと 地元鹿屋市民から聞かされた あれから64年。。。

    2007-08-01 12:37:00
  • 11:

    名無しさん

    当時の滑走路はアスファルトにはなりながらも現役である 私が鹿屋基地勤務半年程してから 広島県江田島にある第一術科学校へ入校するために 慣れたばかりの鹿屋航空隊の緒先輩方にお別れしなくてはならない 別れの前夜 鹿屋の某居酒屋にて

    2007-08-01 15:08:00
  • 12:

    ?

    更新、待ってましたぁ?

    2007-08-01 15:32:00
  • 13:

    名無しさん

    ↑いつも見て頂いてありがとう?がんばって記憶している限り体験談を通じて書きますね

    2007-08-01 19:22:00
  • 14:

    鹿屋で別れの前夜

    なんと私の為に先輩方が、華やかなお別れパーティーを開催して頂けた 先輩方からは「君はこれから一般学生隊員から旧海軍に例えれば三等海曹という下士官に間もなく昇級する。いずれは士官になってかんばって上に上がって行って欲しい」 通常の隊員だと、三年から十年かけて、この3等海曹という位の試験を受けて合格したものだけが、初めて昇級できる 私の場合は始めからわずか二年で昇級が約束された学生隊員であるから、一般隊員からはネタマレたりもした 私は今後は耳がよかったのか、第二適性であった水測(水中測的)と呼ばれる種目のマークに変更になった 叔父が防衛庁長官という国務大臣だっただけに、艦艇乗組員が少なかったのか、航空関係から水上部隊へ、叔父の力でなんと、鞍替えさせられたのだ。 お別れ翌日 基地で定刻8時には課業整列の時に 離任者として司令から紹介された 「離任者を紹介する。●●海士長は今後、第一術科学校入校が決定したので、本日転勤する。今後の活躍を期待する!」 私はすかさず挙手の敬礼にて「お世話に成りました!」と白い朝礼台の上から挨拶させて頂いた 鹿屋基地最後はまたも軍艦マーチの曲で敬礼でお別れである 白手袋着用の礼装である 駅まで仲間や先輩方やらが 「●●!また飲もうな!元気でやれよ!」と言われたら 目頭が熱くなったが 「バカヤロ!泣くんじゃねーよ!」 と言われればまた泣いてしまう 汽車は出ても軍艦旗は降ってくれたのを未だに覚えている。

    2007-08-02 18:23:00
  • 15:

    ?

    読みましたぁ?どんどん更新して?

    2007-08-02 21:01:00
  • 16:

    名無しさん

    長い間、汽車を乗り継いでやっと呉まで来た 呉からフェリーにのって江田島まで行った ミカン畑や段々畑の多い島で、瀬戸内海では割と大型に属する島である この島は明治の始めから、東京築地にあった海軍兵学校が移転されてきたものだ。未来の海軍士官将校を養成する為の学校で 英国のダートマス海軍兵学校 米国のアナポリス海軍兵学校 日本の江田島海軍兵学校と世界三大兵学校と呼ばれた

    2007-08-04 12:39:00
  • 17:

    ?

    今日も読みましたぁ?

    2007-08-04 15:33:00
  • 18:

    名無しさん

    この江田島で、私はソーナー兵器 ソーナー機器操作を教えられた

    2007-08-09 22:14:00
  • 19:

    ?

    読みましたぁ??

    2007-08-10 00:06:00
  • 20:

    ?

    あげ?

    2007-08-10 16:49:00
  • 21:

    名無しさん

    小生が久々に小銃射撃と9?拳銃射撃と機関銃射撃を実射した時の事である。始めの何発かはパーンッ!と乾いた音で引き金を引けば発射されたが、撃っている最中に打ち殻薬莢が詰まったり、撃鉄ハンマーが実包の雷管を叩いているにも関わらず、弾頭が発射されなかったりと、何かと不都合が多い戦後生まれの機関銃だった この訳わからない欠陥銃の名前は62式機関銃と呼称していたが、設計した会社に小生はウンチク文句が言いたい 撃っている振動や衝撃で部品がバラバラと、外れていた事だ 実際に舞鶴の大波射撃場にて 教官の通称:鬼のホリパチと言う陸上警備専門の海上自衛官がいたが、この方は年中ずっーとランボーみたいに迷彩が好きであり 和製ランボーを目指していたのか 何やら京都府警1000人でも相手に、山の中でゲリラ戦でもしかねないような方で、とにかくこの62式欠陥機関銃が好きで 学生に射撃する姿勢が悪ければ このホリパチさんは編み上げな自衛隊長靴で、学生を蹴り上げていたのを覚えている。銃が弾づまりして呼称していても 彼いわく「銃が悪いんちゃう!おのれらの精神が故障しとるから、弾がでんのや」と言って 足腰蹴られた学生は 痛くてさぞ、寝られなかったとは思うが。哀れなものよ。。。。。。

    2007-08-10 17:27:00
  • 22:

    名無しさん

    2007-08-11 09:03:00
  • 23:

    名無しさん

    機銃にせよ何にせよ、日本の自衛隊兵器は質はいいのは確かなのだが、なんせ戦後は一度も他国と戦争や動乱などないものだから、実戦経験がない いくら設計段階では優秀な素材で製作されていても、果たして実戦でなんら故障もなく頑丈でなくてならないのが、軍用兵器なはず だから実戦経験あるアメリカ軍用の兵器を輸入もしくは国内でライセンス生産しているのである 中には日本で改良して本場アメリカさんよりも能力が向上した兵器もある

    2007-08-11 11:01:00
  • 24:

    ?

    あげ?

    2007-08-12 07:39:00
  • 25:

    名無しさん

    さて旧江田島海軍兵学校の施設を紹介する。生徒館は かっては海軍兵学校生徒が日常生活していた場所である。建物は歴史的文化財産であり、大理石を敷き詰めた床面であって、現在においても学生生徒が日夜丹念に磨いている。石は研けば顔が写るぐらいまで、光沢が出る 次、幹部候補生学校の建築物だが、赤レンガを一つ一つイギリスから油紙に包装されて運ばれて来た物である。明治初期の当時の我が国日本には、まだ欧米列国並の頑丈なレンガは製造できなかったという。今では経済、通産や防衛において、アメリカさんとは深い関係にはなってはいるが、幕末の頃から第一次世界大戦ぐらいまでは、日本の文明開化はイギリス式が非常に多い。マッチから機関車や船、スポーツ等 カレーライスからテニス ラグビー ゴルフ サツカー バレー ポロ バスケットボール等 背広(イギリスのロンドンにあるスーツ生地縫製専門通りのサビルロードがなまって背広となる)など 軍艦建造技術までお世話になった 海軍のしきたりや形式までが、

    2007-08-13 13:07:00
  • 26:

    名無しさん

    イギリスを手本とした。当時の世界の海上利権を制覇し支配していたのは、フランスでもスペインでもポルトガルでもドイツでもない。エリザベス女王率いる大英帝国である 日本はそのイギリスに見習い手本とする事により、関税の自主権や日清日露戦争に勝てたわけだ これは日英同盟が強く関係している。こうしてイギリス流日本海軍は、スマートで紳士で強い武士道精神とが一致し、アメリカを脅かす一等国に昔はなった 先の太平洋戦争で敗北したが、その伝統はいまだに海上自衛官は引き継いでいます やり方はアメリカ流にはなっても精神教育は昔のままである
    江田島は服装や身嗜みや掃除には特にやかましい部隊であり、士官となるべき若き士官将校に相応しい上層教育を叩き込まれていった

    2007-08-13 13:55:00
  • 27:

    名無しさん

    さすがに小生は江田島での生活は厳しかった? ラッパの音とサイドパイプの合笛で朝0500には総員起こしで寝床から跳ね起きて整列。。だがどこにでも鈍臭いと言うのか、何をしても動作が遅い学生隊員もやはりいます。その遅い学生の為に64式小銃を両腕で持ち上げたまま、夏のくそ暑い炎天下の下で立たされる。海上自衛隊には学校と違って体罰等ある程度は黙認されている

    2007-08-13 16:05:00
  • 28:

    ?

    今日も読みました?

    2007-08-13 20:22:00
  • 29:

    名無しさん

    休みの夜にはよく広島市内までスナックに行った 市民の女性とゆっくりお話してみたく、ランジェリーパブ行った時はさすがに、小生もびっくりした ブラックライトに白い女性下着は、恥毛をモヤ〜んと写り浮かぶので、客席の自衛官が「戦う前に...名誉ある敗退」したもんだ 当時の10代の小生はやはり 動物であり熱気盛んな体で、それを冷やす為に夜な夜な市内の色街を歩いた事を覚えている。

    2007-08-13 20:29:00
  • 30:

    突撃1番または鉄カブト

    人間ならばオススメとある以上は繁殖活動をしようとする。余程の病気じゃないにせよ メスは色気づいて化粧なりセンスアピールを異性に表現している
    セックスアピールはオスにもある はち切れないばかりの足腰の強い筋肉、これがメスにアピールする したたり落ちる胸板の汗や臭いがフェロモンだと昔から女性は言うが。 しかしだ 人は感じた性欲のままに性交を興じていたならば、強引な性交行為つまり姦淫、強姦をしてしまいかねない 強引な姦淫は紳士のすべき態度ではない。 また性欲が旺盛だからとて、種の保存をすべき行動に移せば、メスは年がら年中、妊娠してしまう オスには種があるからには、メシベに触れさせなければ実は実らない しかし自然には菌がいる 雑菌など 細菌や病原菌が多い。性交独特の際に侵入する病原菌は、今の化学や医学では解明されていない未知な菌も沢山ある 目や口 鼻 肛門 膣 尿道の穴という穴で洗浄能力が乏しいのは性交に使う男性の大砲と女性のホールである 病気を予防するためにはでこぼこ(凹凸)である、早いのは出ているボコの部分に種がメシベのホールに行かないようにゴムのサックに種を殺すクリームをよく散布して、性交しなければならない 事務員の女性が指にはめているオレンジのサックである 男性の大砲に被せてしまえば病気も妊娠もない 余談だがある半島の北半分の国家は、国が貧しいのか 使用済みをさらにひっくり返して洗って再度、射撃に使うようだ。。。。衛生予防避妊兵器は一回のみである ましてや雨漏りするサックは戦術的には使えまい。。。

    2007-08-13 20:59:00
  • 31:

    ある市内のスナックホステスと

    小生が江田島で半年の学生生活に慣れた頃、広島の市内でスナックやらBarで飲む機会が多々あった。小生とそのスナックホステスとの出会いは、雨の夜で、どこの店にしようかと迷っていた時である 太田川に沢山の露店Barが立ち並ぶ夜中に突然、梅雨の雨だ。私はつかさず露店Barにはいった しゃれた小さな露店Barでウィスキーの黒響のショットをロックで頂いた。ブレンデッドの21年物は確かにうまかった すると店のマスターが「お客さんは海軍さんでしょ!さすがあちこちいっているだけの事ありますね!」 小生がなぜ海上自衛官とマスターがわかったのかは、胸ポケットから身分証明書を鎖で吊していて、当時はまだ平成4年ではめずらしかったセルラーの携帯電話をベルトに吊っていたのと、頭が刈り上げは海上自衛隊しかいないからだ 観光客にしては普段着すぎる等で判断できたらしい また口調が自衛隊口調だからだった マスターとほどよく飲んでいたら、「へぇー海軍さんもBarにくるんやね」とテーブル向こうの若い女性が私に声かけた 小生は「海軍さんもBarぐらいは行きますよ。」と返答したら 私の黒響をその女性は自分で頼んで飲んでみたら「おいしい!うちスナックで働いとるけんど、こんなうまいウィスキーは初めてやけん」と喜ぶ。マスターと小生とその女性客であるホステスと三人で朝方まで飲んだもんだ 彼女はマスターの店で会う都度に 何回かあったりはした しかし私は彼女には店の名前など連絡先等聞かなかった 聞けば行ってしまうからだ 店に行けば客とホステスとの関係がなってしまう。 今のままでいい....と小生は思ってはいた

    2007-08-14 15:42:00
  • 32:

    ?

    ?

    2007-08-15 03:33:00
  • 33:

    名無しさん

    それから幾度となくマスターの店で会った 次第に飲んで語って行くうちに、お互いの青春の話を語る様になった 彼女の名前はゆかり。 とも聞かされた 私は自衛隊の学生隊員の分際であったため、帰隊時間は守らなければならない お互いバーで会うのが楽しみになってはいた 小生は金曜の夕方から広島市内へと出向いては、真夜中にはいつもゆかりとあっていた 初めてゆかりの店にいったのは市内のある、スナックビル街の一階にある、小さなスナックと言うよりもラウンジに近かった。小生はゆかりがくれたライターの住所を頼りに、奇襲攻撃した しかしまずい事に夏の白い半袖の略服を来ていたので、自衛官は学生の分際は制服外出と決まっている その格好で店に行ったもんだから、回りの観光客や地元馴染み客ばかりで、小生の格好は注目されてしまった カウンターが好きだったので座ってビール瓶を出されもくもくと飲みながら、店内のゆかりを探した。

    2007-08-15 16:27:00
  • 34:

    ?

    ?

    2007-08-15 23:21:00
  • 35:

    名無しさん

    ?

    2007-08-23 01:45:00
  • 36:

    名無しさん

    私はすぐにゆかりを発見した。同時にゆかりも私の方を見ていたと思う…何にせよ私は制服を着用したままであるから、非常に目立っ
    た。 私はカウンターに座って
    ひとり

    2007-09-16 11:13:00
  • 37:

    ?

    ?

    2007-09-16 21:14:00
  • 38:

    名無しさん

    ゆかりが来るのを待っていた。ビール飲んでまっていたら、背後からわけの判らない酔った中年男性がいきなり声をかけてきた「おい!海軍さんよ、でかい面して飲んどるの〜わしらの税金で飲みくさりよって!おんどりゃ〜」 私にとっては非常に聞き慣れた言葉だから、別にカチンとはこなかったが。

    2007-09-24 18:07:00
  • 39:

    ?

    ?

    2007-09-25 00:00:00
  • 40:

    ?

    ?

    2007-09-25 00:01:00
  • 41:

    名無しさん

    いきなり『でかい態度でのむな』と言われても、飲みたい物は仕方がない ゆかりはそのやり取りを聞いてすぐに私の座るカウンターに来た 座るなり『あの人いつも酒癖悪いんよ。。うちあの人すかんのよ』とボソッとこぼした ラウンジだからなのかカクテルドレス着たゆかりはいつも露店Barで見る顔じゃなかった気がする。私の純白の制服がいいのか。。。 店が終わるのを待っていつもの露店Barに行く すぐマスターが『やっと会えたんやね〜よかったよかった。今日は二人にマスターから一杯おごるよ』といって、黒響の入った小さなRockをグイッとゆかりとマスターとでのんだ 当時、まだ珍しいかったセルラーの携帯電話をとDoCoMoのムーバーで、今の様にimode等はなかった ショートメールしかなかったが、携帯番号を交換し、私の下宿先等を教えあった

    2007-10-28 23:55:00
  • 42:

    ?

    ?

    2007-10-29 12:44:00
  • 43:

    名無しさん

    厳正に安置されている東郷平八郎元帥の遺髪はまさに、日露戦争を戦った勇者だと感じる さらに今から約200年前にトラファルガー岬沖でフランス.スペインの無敵艦隊を敗った大英帝国海軍提督であるホレイショ.ネルソン提督の遺髪も日英同盟締結時にイギリスから贈られてから、今日に至るまで静かに安置されている。 この歴史に残る海での戦いに、指揮官として、軍人として、国の人として、君臨する者に対する忠誠心として、国民を思う人として、二人の海将提督を抜きにしては語れないのだ。 上に立つ指揮官には勇気と決断力がなければ部下はついてこない。それは軍人であるない別にしても問われる事ではないだろうか。。

    2007-10-29 23:49:00
  • 44:

    名無しさん

    休日にはゆかりと映画館見に行ったり、護衛艦や江田島を案内したりした

    2007-11-08 06:49:00
  • 45:

    ?

    ?

    2007-11-08 12:26:00
  • 46:

    名無しさん

    そんな他愛もない冬が過ぎ春の兆しがこようとした時に辞令がおりた 3月には海曹後期教育の為に、舞鶴教育隊へ帰る事になった。

    2007-11-11 04:26:00
  • 47:

    名無しさん

    舞鶴に戻る数週間前、小生は舞鶴に帰る事をゆかりに打ち明けた。 一瞬、ゆかりは顔を暗くさせたが、「よかったやん、じゃ次は位が上がって偉いさんになって行くんやね、うちもそれきいてうれしいけん、、」とポツリと淋しく言ったのを年月、月日がたった今でも鮮明に覚えている。帰るまでのその間はゆかりが泊まりに来ていた。日にちがたつにつれ、荷物も手荷物だけ残して舞鶴の基地が斡旋したワンルームマンションに届けてある 部屋はゆかりが自分の部屋より広いからと使いたいとの事で、私もそれはよかったと感じた。。舞鶴へ着任前夜、私もゆかりも何も話さず、となりの布団でまだ寝ているゆかりを起こさぬ様に私はただ京都行き新幹線に間に合う時間を確かめ体をやすめた、、が寝れない。ゆかりはスヤスヤと寝息を立てている 駅まで見送る手筈だったが、やはり起こしてはいけないと感じて、朝方私は静かに顔と手を洗い、制服に着替えた 荷物を持つ前に、一筆の置き手紙を書いた 「いつかまた広島に帰る。それまでは体壊さずに過ごして下さい。舞鶴の新しい住所は昨夜手渡したとこです。わからなければ総監部に聴いてくれたらわかります 一旦さようなら」 私は靴を履いてドアをそっと静かに閉めたのはいいが、隣に住む老人がいまして、元海軍兵曹長の方で、海軍の戦闘機パイロットしていただけに、私とはよく飲んだ。毎朝決まって乾布摩擦をしている。声が大きく「お!兵曹行くか」 と

    2007-11-13 06:35:00
  • 48:

    名無しさん

    朝早くから得意な自慢の大声で言ったので、私は「兵曹長、人が寝ているので勘弁願います」と言ったら兵曹長は「おっ!どうした。元気ないじゃないか!舞鶴につきゃ、体を労れよ!」とまたもや大声出した。お互い挙手の敬礼で兵曹長と別れたが。上りの新幹線くるまで時間あったので喫茶店でしばらく飲めない広島のミックスジュースを飲んでいたら、ゆかりから携帯に電話がなった 「隣の兵曹長さんの声ウワサ通り大きかったね〜もう駅?..黙って行くなんて冷たいけんね」

    2007-11-13 07:42:00
  • 49:

    ?

    ?

    2007-11-15 12:44:00
  • 50:

    .

    あげ

    2007-11-30 09:21:00
  • 51:

    江田島から舞鶴へ帰隊

    私は「寝ていると思ったからや。悪気はない。ホステスは酒飲む仕事だから体大事にしろよ。夢売る仕事人が具合悪くてはいかんしな」 と言ったら、ゆかりは「うちは悪夢売る女やけん」と泣くので、泣くなと言って聞かした。別れとははかないもので,私は新幹線の中で,過ぎ行く景色を、車中の窓を眺めては涙を堪えたが,制帽のツバで人に見られないように隠したのを覚えている。

    2007-12-15 01:17:00
  • 52:

    名無しさん

    京都に着いたら,伊勢丹の中でコーヒーにした。人がたくさん行きかいして,さすが京都だと感じた。丹後エクスプローラーという福知山,綾部方面へ向かう。これから1時間走れば舞鶴である 西舞鶴過ぎた辺りから磯の香りが漂いだした。 懐かしい舞鶴である。東舞鶴につけば,古い木造駅舎で,改札口でれば小学生らが「あっ海軍さんや!敬礼!」と言って私に敬礼してくれた。舞鶴は昔から海軍の町として発展している。今でも我々海上自衛隊を「海軍」と言う。私はすかさず「ありがとう」と答礼した 子供の相手もつかの間、タクシーに乗って舞鶴教育隊へ向かった

    2007-12-15 01:29:00
  • 53:

    名無しさん

    京都に着いたら,伊勢丹の中でコーヒーにした。人がたくさん行きかいして,さすが京都だと感じた。丹後エクスプローラーという福知山,綾部方面へ向かう。これから1時間走れば舞鶴である 西舞鶴過ぎた辺りから磯の香りが漂いだした。 懐かしい舞鶴である。東舞鶴につけば,古い木造駅舎で,改札口でれば小学生らが「あっ海軍さんや!敬礼!」と言って私に敬礼してくれた。舞鶴は昔から海軍の町として発展している。今でも我々海上自衛隊を「海軍」と言う。私はすかさず「ありがとう」と答礼した 子供の相手もつかの間、タクシーに乗って舞鶴教育隊へ向かった

    2007-12-15 01:31:00
  • 54:

    ?

    ?

    2007-12-15 02:13:00
  • 55:

    名無しさん

    ?

    2007-12-30 00:39:00
  • 56:

    出会い系

    2008-01-25 09:28:00
  • 57:

    出会い系

    2008-01-25 15:22:00
  • 58:

    出会い系

    2008-01-26 11:58:00
  • 59:

    名無しさん

    ?

    2008-06-16 08:05:00
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