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風俗なの口座に隠してる人
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1:
名無しさん
ぶっちゃけ私はストレス発散はしたいけどホストに大金使うのはもったいないと思ってる?
金持ってると思われてあおられるのもしんどいし色かけられるのもだるいからいつも職業聞かれたらガールズバーの内勤とかスナックってごまかしてます?
通ってるホストクラブは梅田一部のホストです?
私の出勤は梅田で夜から朝でホテヘルです?
やっぱりどこかで口座の仲間に見られたりしてアイツ風俗やで(笑)とかゆわれてるんかな?
ばれたりしても何も言ってこないかな?
ばれて何かいわれた人いてる??2010-10-15 08:30:00 -
61:
>>3
宝暦4年(1754年)正月。薩摩藩主・島津重年のもとに幕府からある書状が届いた。「濃州・勢州・尾州川々御普請御手伝い仰せつけられ候間、その趣存ぜられる可く候」このわずかな文面の奉書が、その後薩摩藩に未曾有の大打撃を与える最初の知らせだった。これまで濃尾平野は毎年のように洪水を防ぐ工事をしてきたが、効果がなかった。しかし宝暦3年、さらなる大洪水がお喜、治水工事の御手伝い普請を薩摩藩に命じたのだ。御手伝い普請とは、莫大な費用と労働力を負担させ、外様大名の勢力を削ぐ幕府の政策である。
鶴の丸城に薩摩藩の家臣が集まる。「幕府より木曽・長良・揖斐川の治水工事お手伝いの命が下った」その内容は延長120キロメートルの堤防を築くこと。しかもわずか一年半の期間で完成させねばならず、さらに工事費用にほとんど約15万両を負担せよというものであった。反発する薩摩藩士。「納得いかん。ご公儀は工事にかこつけて、薩摩の金蔵を空にしようとしているのは明らか。これは徳川が関が原以来の薩摩への鬱憤をはらさんとすつ卑劣な陰謀である。かくなる上は、たとえ取り潰しになろうとも、幕府と決戦すべしと思うが、いかがか。我ら薩摩武士、仕掛けられた戦いに立ち向かうこそ、武士の本懐でござる」
しかし家老・平田靱負は反対する。「戦をまじえることだけが武士の本分であろうか。確かにこのたびの幕府の命令は筋が通らないが、静かに考えるに、四海同胞と称し、日本国中の人々は我らが兄弟である。我らが同胞の難儀を救うことも、薩摩武士の本分ではないか。ここはひとつ、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えて、恭順幕命を奉ずること。これこそが今日の上策と心得申す」
2010-10-18 21:02:00 -
62:
>>4
平田靱負は工事の責任者である普請総奉行に任命され、1月29日美濃に向かって出発する。平田ら藩士一団は小倉を出発し、海路大坂に向かった。船を降りた平田は美濃へ向かう藩士たちと別れ、大坂の豪商のもとへ。工事費用調達のため、借金申し込みの懇願に向かったのだ。しかし大坂で借りられたのはおよそ7万両。さらに江戸からは工事費用の見積もりを行なったところ、30万両かかるという知らせが来る。この事態にやむを得ず、薩摩藩は人頭税を七倍にはねあげた。領民はにわかに飢えと困窮に直面した。
2月9日、平田たちは美濃・大牧に到着。普請現場は広範囲に及ぶため四つの組に分かれて工事にあたっていた。しかし藩士たちは幕府から武士にあるまじき待遇を受けていた。宿舎は農家や小屋がけの仮住まいに大勢が押し込まれ、食事も一汁一菜に限られ、さらに幕府の役人は石の積み方、土の盛り方ひとつに難癖をつけ、一からのやり直しを命じる有り様だった。
現状を知った平田は幕府に申し出る。「工事ですが、不慣れな武士と農民だけでははかどりません。難しい技術が必要なところは、専門の業者を雇わせていただきたいのです」「平田殿。業者を雇えば、かなりの費用が必要となるだろう。そんな贅沢を認めるわけにはいかん」工事開始から二ヵ月半たった4月14日。薩摩班側用人付与力の永吉惣兵衛は幕府のあまりの仕打ちに講義して、切腹自殺する。「平田殿。いかがいたしましょう」「抗議の切腹が幕府に知れれば、反逆の意志ありと見なされるだろう。永吉は腰のものにて怪我いたし、相果て候。報告書にはそう書き記すように」
2010-10-18 21:09:00 -
63:
>>5
夏となり、薩摩藩士と農民たちは苛酷な待遇のまま、約70キロの堤防を完成させる。しかし新たな悲劇が薩摩藩士に襲い掛かった。揖斐川下流に築かれた堤防は完成したばかりで、土はまだ固まっていなかった。6月10日、揖斐川の下流の堤が決壊。さらに7月には木曽川の堤防が二箇所で決壊。四ヶ月の血のにじむような努力は無に帰した。平田は再び幕府に専門の業者の雇いあげを許可するよう嘆願するが、今度も幕府は拒否。さらに工期を遅らせないことを改めて要求した。
さらに事態は悪化する。真夏の重労働で生水をがぶ飲みし、腹痛を起こすものが続出。赤痢の集団感染だった。そしてついに死者も。「民を救う」という大義を語り、美濃まで連れてきた平田は自分を責めた。(すまん。しかしこの工事はなんとしてもやらねばならんのだ)もはやこの身は生きて薩摩の血を踏むことはない。治水工事を完成させることだけが唯一薩摩武士の死をムダにしない道と平田は決断した。
ある日、島津重年が参勤交代で江戸へ向かう途中に工事現場に立寄る。これによって藩士たちは元気を取り戻し、工事に取り組み始めた。9月。二ヶ月かけてようやく決壊部分の修復を終えた平田たちに最大の難関が待ち構えていた。木曽川と揖斐川の合流地点である油島に仕切り堤防を作り、流れを制限する工事を始める。しかし流れも速く複雑な工事は、専門の業者でも難しいとされていた。
2010-10-18 21:12:00 -
64:
>>6
「やはり、もう一度専門業者の雇いあげを」今まで多くの死者が出ていることを重く見た幕府は、平田の願いを受け入れる。しかし雇い上げには莫大な費用が必要となった。「ここで工事を中断するわけにいかん。最後の切り札を使う。薩摩の特産物、黒砂糖・菜種の販売権を担保に出す」「それらはわが藩の財政を支えるもの」「しかし、今はこれしか方法はないのです」
9月末、平田の金策によって、いよいよ油島での工事が始まった。危険な工事で命を落とす者も発生したが、宝暦5年(1755年)3月、ついに堤防が完成する。「わしはこの堤防に最後の仕上げをしてやろうと思います」平田は薩摩から取り寄せた日向松を堤防に植えつける。「この日向松は火山灰の多い薩摩の土地にもしっかり根付く強い松。きっと末永くこの堤防を守ってくれることであろう」
5月22日、江戸からやってきた検分役人は、堤防にお墨付きを与える。「うおおお。これで薩摩に帰れる」ここに全長120キロメートルに及ぶ日本最大の治水工事が完成した。長く辛い工事を終えた薩摩武士たちはようやく故郷へ引き上げていった。薩摩へ帰る家臣たちを見届けた平田は5月25日、治水工事の全責任をとって切腹。しかし薩摩藩の記録にはこう記されている。「家老・平田は病の床で血を吐き死去」他の藩士たちと同様、その切腹は伏せられたのである。
2010-10-18 21:12:00 -
66:
>>11
明治39年(1906年)、政府は「神社合祀令」を出す。それは国家神道の強化と中央集権化を目的に地方の神社を整理統合して一町村一社とするものであり、廃止した神社は鎮守の森を伐採し、農地に転用していた。森が次々に伐採していると聞いて考え込む熊楠。(このままでは大切な熊野の森が、いや、日本中の森が破壊されてしまう。森の伐採は人々の暮らしにも影響を与えているのではないか)そして熊楠は伐採の影響で森に保水力がなくなり鉄砲水が起きやすくなり、害虫を食べる鳥がいなくなったので害虫の被害が増えていることを知る。
そして明治43年(1910年)、熊楠は那智の森が伐採されるという噂を聞く。(その豊かな保水力で那智滝の水源を支えてきた那智原生林。その森が伐られてしまうというのか)そこで熊楠は反対運動を起こすため地元の新聞「牟婁新報」の社主・毛利清雅に力を貸してくれと頼む。毛利は熊楠に協力し、那智の森は守られるが、熊楠の父のふるさとの大山神社が廃止されることになる。怒った熊楠は役人の家に乗り込み、家宅侵入罪で逮捕される。
そのことを内閣法制局参事官だった柳田国男は知って、心を痛める。「生物学のみならず民俗学についても深い学識を持っておられる南方先生が、神社合祀反対を県の役人に訴えて逮捕・留置されている。今、私が先生のためにできることは」留置されていた熊楠に一冊の本が届く。「柳田国男。知らない名前だな。「石神問答」。全国の石に関する信仰を集めて考察した本か。うーむ。実に優れた考察だ。中央政府の役人にこれほど民俗学に通じた者がいたとは」
2010-10-18 21:15:00 -
67:
>>12
釈放された熊楠であったが、阿田和の大楠が伐られようとすることを知る。(樹齢1000年以上とされる紀伊半島随一の巨木。神木としてあがめられているあの大木が倒されることが決まったというのか。それはなんとしても止めなければ。しかし決定した伐採を止めるには三重県知事に訴えるしかない。しかし知事は強硬な神社合祀推進派。どうしたらいい。そうだ。中央官庁に柳田国男がいる)そして柳田国男の力で阿田和の大楠が守られる。
しかし役人は次々と森の伐採を行なう。熊楠は全国に向けて森を救う行動を起こさないといけないと柳田に訴える。そして明治45年(1911年)3月12日帝国議会で、中村啓次郎議員は熊楠の書いた草稿を元に演説する。「神の森の伐採は一時の金銭を与えるも、益鳥を断ち、害虫を増やし、やがては大水によって国民に永久の物質的な損害を与えるものである。愛国心は愛郷心からなり、愛郷心は鬱蒼たる樹木により天然の景色を保ち、人々の暮らしに慰安を与える神社に大きくよっている。これをなくせば愛国心・愛郷心も廃れる。神社を合祀するをもって、わが帝国の盛衰滅亡に関することなりと信ずる」そして大正7年(1918年)3月、ついに神社合祀令は廃止決議となる。
昭和16年(1941年)、熊楠は妻に見守られて最後の時を迎えようとしていた。「ああ。よかった」「あなた。大丈夫ですか」「昔を思い出していたのだ。神社合祀令が廃止された日のことを」「あなたはあの日、本当に喜んで」「そして生涯もっとも晴れやかな日だったのじゃ。昭和4年(1925年)6月1日」「天皇陛下が田辺沖合の神島を訪問されて、あなたが進講役を勤めたんのでしたね」「あの日私は陛下に熊野の森で採集した粘菌の標本を進献したのだ」「進献品は桐の箱に入れるものなのに、あなたはキャラメルの箱に入れて陛下に差し出して」「あの時は陛下はとてもお喜びになったなあ」昭和16年12月29日。南方熊楠死去。自由奔放に生きた75年の生涯だった。
2010-10-18 21:16:00 -
68:
>>20
江戸時代末期は不安と動揺に満ちた時代だった。相次ぐ天変地異とそれに伴う深刻な飢饉。それが原因となって各地で誘発するうちこわしや一揆。幕府は段々とその信用を失っていた。そんな時代に寛政3年(1791年)8月、小田原藩栢山村。「おい、早く逃げろ。水がくるぞ。酒匂川の堤が切れた」「ああ。家が。丹精込めた田畑が」当時、二宮金次郎5歳。こうした災難に藩からの助けはなく、金次郎の両親は相次いで過労で死んでしまい、残された金次郎は親戚の家に引き取られていく。
成長した金次郎は学問に目覚め、「論語」の一節に強く影響を受けた。「己に打ち克てば、天下はその徳に従う」(そうだ。自分の心さえしっかりしていれば、できないことはないんだ。ならば、俺はこの昔住んでいた田畑を元の姿に取り戻してみせる)荒地を耕しはじめた金次郎は、地道に農耕に励み、20歳までにはかつての田畑を再興してしまう。
文政3年(1820年)、かつて両親と住んでいた家を再建した金次郎は、34歳のこの年結婚し、子供をもうける。その翌年。「は。いかにも栢山村で金次郎といえば、私でございますが」「ならば申し渡す。上意。これよりただちに城に出頭せよ」「おそれながら私は一介の百姓なれば、お城に召される心当たりはございませんが」「おぬしになくとも、こちらにはあるのだ」金次郎は小田原城で小田原藩主・大久保忠真と会う。
2010-10-18 21:17:00 -
69:
>>23
天保7年(1836年)12月、金次郎は小田原に戻るよう命令を受ける。「小田原に。相当状況は悪いのでしょうか」「飢餓に瀕する者、四万は下るまいとのことである」金次郎はただちに藩の米蔵を開くことを要求する。「領民のために藩の米蔵を開くことは前例のない話ゆえ、そう簡単に判断のつくことではない」「今起きている飢饉こそが、もっとも前例にないことでございましょうか。政治が行き届かず、飢饉に及んで民を死に至らしめるとすれば、一体何と言って、天に謝罪するのか」金次郎は米蔵を開くことに成功する。
そして被害状況を調べる金次郎。「食糧も金も十分足りている家を「無難」、徐々に不足しつつある家を「中難」、食べるものも金もなくなった家を「極難」。そして「極難」にはいった家で命の危険のあるものは一箇所に集めて、一日一合の粥を与えることにします」しかし金次郎は不安であった。「今は真冬の二月。麦や山菜の収穫のできる春までは、あと二ヶ月ある。藩の備蓄米とて無尽蔵ではないし、こうしてうる間も「極難」の民は増え続けているんだ。春までの二ヶ月を持ちこたえるには、やはり画期的な策が必要になる」
そこで金次郎は裕福な農民に訴える。「現状少しでも余裕のある者は、金一文、米一合でよいから、提供してもらいたいのだ。それらを集め、基金を設けて、「極難」の人々に無利子で貸し与えようと思っている」「待ってください、二宮様。我らもいつ生活が怪しくなるやも知れぬ情勢だというのに。そもそも貧乏人に貸したって、返すはずがありませんよ」「我々は同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた仲間ではないか。未来の実りを信じて、今こそ飢饉を救おうではないか」
2010-10-18 21:19:00 -
70:
>>24
そうして、金や米が金次郎のところに集まってくる。「まさに徳をもって、人に報いる。この金は「報徳金」と呼ぶのがふさわしい」報徳金は4000両に達し、こうして村人同士で助け合いつつ、4月に春の訪れとともに、畑に麦が稔りはじめた。日本全国で数十万の死者を出した天保の大飢饉。しかし小田原領民には一人の餓死者もいなかったと伝えられる。
天保12年(1841年)。老中水野忠邦は金次郎を江戸城に呼ぶ。「先の大飢饉に際しての小田原での働き。見事というほかなく感服つかまった。ひいてはその能力、幕臣として国全体のために役立てる気はないか。幕府自身も先の飢饉では、大きな痛手をこうむった。多くの人死はもちろん、農地の荒廃、その結果生じた人心の荒廃。これを放置していては、国は到底立ちゆかん」「私の願いは人々の心の田の荒廃を開拓して、天から授かった善の種を育てて、広めることにあります。心の荒廃を一人が耕せば、土地の荒廃が何万町あろうとも、恐れるものではございません。謹んでお役目お受けいたします」
幕府に取り立てられ武士となった金次郎は、その後20年に渡って、日本各地を訪ね、復興に力を尽くした。建て直した村の数は生涯で600に達したといわれる。安政3年(1856年)仕事で訪ねていた栃木県今市で倒れた金次郎は、この地で70歳の生涯を終えた。その墓は遺言に従い、土を盛っただけの大変質素なものである。
2010-10-18 21:20:00