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我が青春12年間のウェーキ《航跡》

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  • 1:

    ?

    小生は昼間に神戸沖を望むある埠頭のパークへ、甥を連れてドライブに来ていた。。ボッーと天気に任して遥か淡路島を見ていれば、海上沖合に綺麗にアヒルの親子みたいに等間隔をあけて、整列して航行する船団を見受けた。。しばらく目を凝らして見てみれば、、私はその時に忘れもしない、それは船の番号からして、色からして我が国の海上防衛を担っている海上自衛隊所属の護衛艦隊であった。和歌山の果てから山口県の端までは、広島県呉にある呉基地が管轄しているので、瀬戸内海から大阪湾と紀淡海峡を抜けて横須賀基地まで行く構えである。 小生は

    2007-07-17 20:28:00
  • 2:

    名無しさん

    その見覚えのある艦隊の艦影に見覚えがある。。今から五年前まで私は艦隊にいた人間だから。艦首の航行する、艦首が立てる波からある程度の艦隊速力が判断できる まさに水中から勇ましい、懐かしいプロペラ音が聞こえる様だった。 私が入った海上自衛隊は、かっては海軍と云われた組織であり今は、名前を変えて存在している 訓練がまるっきし帝国海軍から変わってはいない 私が入隊した頃はまだ春の梢が多かった時で、肌寒い時期に舞鶴の門へくぐった事である 学生課程での、入隊した海上自衛隊は自慢じゃないが、理数は出来なければ絶対にダメである。それは帝国海軍からなんら変わりはない。 私が入隊した頃は、厳しい訓練と日本海独特の暑さが待っていた。まず入隊すれば三日間はお客さん扱い扱いである その間に

    2007-07-18 07:01:00
  • 3:

    ?

    読んでます?

    2007-07-19 01:32:00
  • 4:

    ??

    >>4さんありがとう 事実と体験をもとに、今の南で飲む小生へと話しを進めて行きたいです

    2007-07-19 07:51:00
  • 5:

    ?

    制服を着て東舞鶴から、当時まだあった汽車に乗って綾部、福知山を経由して京都まで、京都から大阪まで帰った 濃紺のネービーブルーの詰め襟を着て帰って来た時は、近所の方々が自宅まで「てっちゃん帰って来たのんや!お帰り」とか久々に近隣の方々と会話した みんな制服着ているので、海軍さん海軍さんと呼ばれたのを覚えている 帰省中は卒業した学校の講話とか、海上自衛隊の事をご理解していただく為にたくさんの方々と交流した 休暇が終わって舞鶴へ戻れば、5キロマラソンや連帯責任というあらゆる罰直が待ち受けていた 理由は何でもかまわない 靴がみがかれていないだの、布団の整理がわるいだの、

    2007-07-19 08:03:00
  • 6:

    名無しさん

    ナングセ付けられて歯がぐらつくまで殴られたもんだ やがて半年間の厳しい過酷な訓練教育が終わりに近づいて来た時に 5キロ持久走競技がある 18分以内に

    2007-07-19 21:23:00
  • 7:

    ?

    今日も読んでます?

    2007-07-19 22:29:00
  • 8:

    名無しさん

    走り切らなければならない 私は号砲がなった時からトップを走った そのために皆が自由時間に寝ている時間でもただタイムだけをあげるために、過酷な練習にたえてきた.17分11秒 でなんとか逃げ切りで一位入賞 暑い真夏の気温での戦いはおわったが この日の入賞メダルの数と金銀銅によって 修業行進の先頭を歩けるわけだ 名誉に関わる事だったので 私は通算は個人の駆け足登山競技が一位 射撃個人が銅で三位 団体ハンドボール三位 団体水泳が三位 団体短距離一位 で計 5個のメダルを首からかけて卒業行進の時に堂々と、白の詰め襟制服で他の学生や職員や教官に見送られながら、音楽隊が生演奏する軍艦行進曲を右手に聞きながら 白い礼装挙手の敬礼を

    2007-07-21 00:03:00
  • 9:

    ?

    ?

    2007-07-21 05:18:00
  • 10:

    名無しさん

    である 新しく配属された部隊基地は徳島県にある201小月教育航空隊 私は航空隊勤務になった そこで航空救難武器整備員となって半年間勤務した 救難ヘリコプターからYS11、 P3C対潜哨戒機に幾度となく仕事柄、搭乗した 正規の飛行搭乗員になればクルーとされ、航空手当やら食べる食事までも違ってくる パイロットとなればさらに航空食までが付与される それからまた転勤となって一時は鹿児島の鹿屋航空隊勤務となった ここの飛行滑走路は戦時中は、神風特別攻撃隊員が、飛行機に重たい爆弾をくくり付けて終戦までに約2200名のパイロット達が戦後の復興と平和を願って 有利な和平交渉になるように 沖縄近海に集結しているアメリカ空母機動部隊へ必殺の体当たり攻撃をしに連日飛び立ったと 地元鹿屋市民から聞かされた あれから64年。。。

    2007-08-01 12:37:00
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